安倍晴明(921年~1005年)は、平安時代の陰陽師。日本の歴史を代表する占い師。国家公務員。当時の最高権力者の藤原道長に仕えた。85歳まで生きた長寿でも知られる。母親はキツネだったという伝説がある。ゆかりの地である「晴明神社」(京都市)は人気の参拝・観光スポットになっている。
安倍晴明とは
氏名 | 安倍晴明 (あべの・せいめい) |
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職業 | 陰陽師(おんみょうじ) ※陰陽師とは「天文」や「暦法」の専門家。 今でいう仏滅や友引のような日の吉凶を熟知していた。それらの知識をもとに、占いを行った。言い伝えによれば、術を使い、人の生死まで操ったという。 「陰陽家」とも呼ばれる。 朝廷には「陰陽寮」という部署があり、陰陽師たちが職員として所属していた。安倍晴明もその一人だった。 |
活躍した時期 | 平安時代の中期 ※平安京にて摂関政治が行われていた時代。 |
勤務先 | 陰陽寮(おんようりょう) ※陰陽寮とは、日本の役所の一つ。暦や天文、占いを業務としていた。 |
陰陽師以外の役職・仕事・肩書 | 天文博士、大膳大夫、主計権助、左京権大夫などを歴任した。 ※陰陽寮以外の就任期間のほうが長かった。 |
誕生年 | 921年(延喜21年) |
没年 | 1005年(寛弘2年) ※85歳で死去 ※この前年に、左京権大夫という役職に就いた。 |
長寿 | 85歳まで生きた。 ※当時としては、極めて長寿。 しかも、晩年も健康な状態を保っていたとされ、仕事も85歳まで現役だった。 当時としては極めて異例である。 |
遅咲き | 晴明は、老年になってから本格的に活躍した。 史料に名前が現れるのは40歳を過ぎてから。 順調に出世し、藤原道長や一条天皇の信頼を得た。 老大家として30年近く重用された。 |
先祖・家系 | 系譜関係の第一級史料『尊卑分脈』で安倍家の系図を見ると、右大臣・御主人(みうし)から晴明は9代目。 |
父親 | 大膳大夫の益材(ますき) ※ただし、伝承では、保名(やすな)という名前。 保名が信太大明神(聖神社)に祈願したときに、「信太の森の鏡池」の水面に、後に晴明を産み、母親となる白キツネの姿が映ったという。 大阪府和泉市の史跡の池に隣接して「信太の森ふるさと館」がある。 |
母親 | 伝説によると、晴明の母はキツネ(狐)だった。
白キツネ。
信太山(しのだやま)(現大阪府和泉市)に現れた。
晴明の父に命を助けられ、「葛の葉」という名の女に化けた。 その後、結婚して晴明を産んだという。 |
上司 | 関白・藤原道長(ふじわらの・みちなが)。 ※当時の最高権力者。平安朝の歴史の中で超有名な人物。 |
時代背景 | 当時の貴族たちは運命や吉凶を気にかけていた。
怨霊(おんりょう)におびえていた。このため、祈祷(きとう)に頼る者が多かった。
いわゆる「除災招福」である。貴族のために吉凶を判断し、呪術を行ったのが陰陽師。 また、貴族たちは不吉な日や時刻を避けていた。 「物忌み」といって、飲食や行動を慎んだ。これらに関わるのも陰陽家の仕事。 安倍晴明はその第一人者だった。 平安貴族の日記にも、陰陽師が登場する。 例えば、藤原道長の「御堂関白記」、藤原実資(さねすけ)の「小右記」 |
屋敷跡 | 屋敷跡は今、「晴明神社」(京都市上京区)となっている。参拝者が絶えない。 |
容姿 | 安倍晴明の容貌を記した平安時代の史料はない。 後世、制作された肖像画や絵巻物があるだけだ。 それらを見ると、多くの場合、面長に描かれている。 貴族にありがちなたっぷりとした丸い顔とは少し異なる。 また、晴明が活躍したのは老年になってからだが、総じて若い姿をしている。 |
師匠 | 賀茂保憲(かもの・やすのり)。 ※日本の陰陽道の第一人者とされていた。 |
ルーツとなる思想 | 【古代中国の陰陽・五行思想】 陰陽師のルーツは古代中国の陰陽・五行思想にある。 宇宙の基本単位としての「陰」と「陽」。この2つの気の消長。 そして、「木(もつ)・火(か)・土(ど)・金(ごん)・水(すい)」という5つの要素。 その相克・相生によって万物が生成していく。 源流は黄河流域の漢民族の巫祝(ふしゅく)、巫覡(ふげん)たちシャーマンの存在にまで溯るとされる。 |
制度 | 陰陽師は、陰陽寮(おんみょうりょう)という組織に所属していた。
この陰陽寮は、律令官僚制度で定められた公的な国家機関。
具体的には、陰陽寮は、天武朝(7世紀後半)に設立された中務(なかつかさ)省の中にある一つの部局だった。
また、天皇直属の諮問機関でもあった。業務内容は地相や占筮(せんぜい)など。 つまり、陰陽師は役人。すなわち国家公務員だ。 『職員令』には「陰陽師は6人」などポスト数、職種、身分などが細かく記されている。 さらに、律令国家が解体される過程で、業務範囲が「占師+呪術祭祀」へと拡大した。その象徴が、安倍晴明。 |
役割の変化(詳細) |
陰陽師の活動内容は奈良時代(8世紀)から安倍晴明が活躍した平安時代中期にかけ、大きく変化していた。 奈良時代は占術が活動の中心だった。 当時の政治の運用、国家・天皇の運命と不可分の科学、数学、宗教、技術の総合的な知の世界を担当した。 それが平安時代になると、本来は神祗官や密教僧の仕事であった祓(はら)え、祈祷、祭儀、呪術なども担うようになる。 「国家の占師」から、「占師+呪術祭祀執行者」へと、その活動が拡大していった。 |
性格や勤務態度 | 勤勉な役人だったと考えられている。
記録によれば、相当な激務をこなしていた。しかも最晩年まで働いている。 たいへん自己主張が強く、宣伝にも長じていたという。 自らを神話的に語り、アピールするのが上手だった。 逆に言えば、そうせざるを得ない状況下に置かれてもいた。 賀茂家がライバルとしてあり、記録を見ると、とりわけ賀茂光栄(みつよし)とは常に競っている。 晴明の師匠は光栄の父、保憲(やすのり)と言われているから、2人は実に微妙な関係であった。 だから、必死に売り込んだ。 おかげで当時最大の権力者、藤原道長と近い関係を築き、一条天皇にも信頼された。 国家の役人としての仕事に加え、陰陽師としての職分にこだわった。 貴族たちの祭祀や祈祷などの請け負い仕事もこなしていた。 個人の活動分野を充足させ、陰陽師を職業として確立していった。 占いは7割当たれば神の領域とされていたが、おそらく外れた時の言い訳もうまかったと想定される。 |
得意技 | 晴明の特技の一つは「泰山府君(たいざんぶくん)祭」。
泰山府君とは冥界の王、つまり仏教でいえば閻魔(えんま)である。
泰山府君が支配する冥界には、死者の戸籍があったと考えられている。
たとえば「道長は何年何月・死亡」といった内容だ。
泰山府君祭とは、その戸籍を泰山府君に頼んで、書き換えてもらうことを祈る、つまり延命長寿の祈祷といってよい。 また、一条天皇のために83歳の時、「玄宮北極(げんぐうほっきょく)祭」を行った。 北極星は天皇の象徴で、天皇の健康祈願、延命長寿の祈りである。 さらに説話文学に出てくるような、道長が政敵などから仕掛けられた呪詛を取り除く儀礼も行っていたと思われる。 晴明が直接携わったという記録は確認されていないが、平安時代の陰陽師が河原に出て、「呪詛(じゅそ)の祓え」を行ったというのは、有名な『枕草子』にもある。 また「呪詛祭」という名称の祭りもある。呪詛自体を神様に祭り上げてしまう。「呪詛神」と言う。ただ排除するだけでなく、神とする(日本的)。 |
逸話・伝説(1):道長と法隆寺 | 道長は自ら建てた法成寺(ほうじょうじ)を毎日のように訪れた。
ある日、連れていった白い犬が前で吠(ほ)えた。
衣の裾をくわえたりして道長の邪魔をした。 急いで晴明が呼ばれた。 晴明は沈思する。そして、呪詛(じゅそ)者の存在を予言して地面を掘らせた。 すると、土器が出てきた。 土器には、朱色の砂で呪いの文字が記されていた。 晴明は紙で白鷺(しらさぎ)をつくった。 そして、それを空に投げ上げた。 鷺は南方へ飛んで、晴明と張り合っていた陰陽師・芦屋道満(あしや・どうまん)の足元に落ちた。 芦屋道満は民間の陰陽家で、晴明のライバルだった。「道摩法師(どうまほうし)」と呼ばれる。 道満は、道長の政敵の依頼で呪ったことを白状した。故郷の播磨国(兵庫県)へ流されたという。 以上は「宇治拾遺物語」の中に記載されている。 「御堂関白の御犬晴明等奇特の事」というタイトル。 |
逸話・伝説(2):病気を治す |
三井寺の智興上人が重い病にかかる。
高弟たちが連日、祈祷(きとう)しても良くならない。
晴明を呼んで力を借りることにした。 晴明は「治すことは難しいが、身代わりになる僧がいれば治るかもしれない」と告げた。 高弟たちはおじ気づくが、貧しい身なりの僧が「師の代わりに死ねるなら」と申し出る。 晴明の「祭り」の結果、病は入れ替わり、上人は回復。 身代わりに病を得た僧も死ぬことはなく、晴明は「2人とも大丈夫」と保証して立ち去る。師弟は泣いて喜び合ったという。 晴明は、できないことはできないと率直に説明した。結果的に身代わりの僧の命も助けた。心優しい救済者として描かれている。 以上、「今昔物語集」などに収録されている。 |
逸話・伝説(3):ヘビ混入事件 | 関白・藤原道長のもとに、奈良からへ瓜(うり)が送られてきた。 晴明がこの一つに毒気があると占った。 実際に割ってみると、中から小さい蛇(へび)が出てきたという。 |
逸話・伝説(4):その他 |
・草の葉を投げただけで池のほとりの5、6匹の蛙(かえる)をおし殺した。(嵯峨の寺で若い僧たちの求めに応じたのだという。) ・鬼神を操って身の回りの世話をさせていた。鬼神の名は「式神」(しきがみ)。 |
逸話を記した本 | 「宇治拾遺(しゅうい)物語」 「今昔(こんじゃく)物語集」 「古今著聞集(ここんちょもんじゅう)」 など。 |
死後 | 安倍晴明の死後、陰陽家の本家として安倍家と賀茂家がしのぎを削った。次第に、安倍家が優勢になっていった。 室町時代に土御門家を称して、全国の陰陽家を配下に収めた。 |
子孫たち | 宮廷陰陽師の晴明の子孫は、後に「土御門家」という貴族になり、室町時代には、従三位(じゅさんみ)にまでなった。絶対的権威を誇る宮廷陰陽師である。1683年(天和3年)、土御門が、地方の「陰陽師」系宗教者を「門人」として支配下に置くシステムを作り出した。 地方で「陰陽師」を名乗り、占いや暦売り、祓え、祈祷などを行うものは、土御門家からの免許状を必要として、その対価として、売上に応じて上納金を納めるという制度である。 ここに土御門による地方陰陽師を支配する構図、相互補完関係が成立した。 |
伝承 | 鎌倉、室町、江戸と時代が進むにつれ、庶民の間にも暦や吉凶の占いが広がる。
晴明は、多くの説話や伝承の主人公だった。 晴明の子孫と自称したり、弟子筋と宣伝したりする陰陽家が各地に現れた。彼らがまた、晴明を超能力者のように語り伝えた。 |
ゆかりの地 | 大阪府和泉市の信太(しのだ)山は、山と呼ばれているが、標高40~80メートルの丘陵である。
樹林、草地がある。
さらに、湿地もある。
ため池もある。
多様な動植物が観察できる。 その大部分が戦前、陸軍の演習場になった。 現在は陸上自衛隊の演習場になっている。 都でも古くから知られていいる。 「枕草子」では「もりは信太の森」とたたえられた。 多くの和歌にも詠まれた。 |
大阪との関係 | 大阪とは関わりが深く、出生地と伝えられる大阪市阿倍野区に阿倍王子神社、安倍晴明神社がある。 |
出生地伝説 |
・筑波山周辺の猫島(茨城県) ・吉生(茨城県) ・讃岐国香東郡井原庄(香川県) ・その他、大阪府下 各地に散在する。 |
母親の神社 | 母親伝承としては大阪府和泉市に聖(ひじり)神社、信太森(しのだのもり)葛葉(くずのは)稲荷神社がある。 |
全国の史跡 | 日本各地に晴明伝説がある。東北から沖縄まで広く伝播している。史跡も30カ所以上ある。 蝮(まむし)封じ、虫封じ、乾燥地での井戸掘り伝説など、多くは弘法大師伝説に近い。地方、民間の宗教者たちが晴明伝説を広げていったのである。 |
シンボルマーク | 晴明のシンボルに星のマークがある。五芒星(ごぼうせい)である。 五行の基本「木火土金水」、つまり宇宙全体の象徴である。 |
晴明伝説を全国に拡大させた人たち | 、 朝廷に組み込まれなかった民間、地方の陰陽師。すなわち「法師陰陽師」(ほうしおんみょうじ)と呼ばれる人たち。鎌倉時代以降は「唱門師」と呼ばれた。 |
詳しい専門家 | ◆斎藤英喜 (さいとう・ひでき) 神話・伝承学専攻。 佛教大学文学部仏教学科教授。 1955年(昭和30年)、東京都生まれ。 日本大学大学院博士課程満期退学。 主な著書は『安倍晴明―陰陽の達者なり(ミネルヴァ日本評伝選)』、『アマテラス神話の深みへ』(新曜社)、『いざなぎ流祭文と儀礼』(法蔵館)、『〈安倍晴明〉の文化学』(共編著、新紀元社)。 ◆山下克明 大東文化大東洋研究所兼任研究員 ◆細田慈人 「信太の森ふるさと館」の学芸員 |
参考書籍 | 「安倍晴明―陰陽の達者なり(ミネルヴァ日本評伝選)」(Amazon)→ |